和のこころをつなぐ vol.4 「和の源流~海が育んだ歴史と文化」

海と生きる

和のこころをつなぐ vol.4 「和の源流~海が育んだ歴史と文化」

海の京都DMOの文化観光サポーター、河田恵美です。海の京都エリアの伝統文化やお祭りの継承、地域文化の活性化のために活動しています。
令和4年度、海の京都では「和の源流~海の文化」に関する映像制作とツアー造成を行っています。海とともに生きてきた地域だからこそ、海への感謝や祈りの伝統が生まれ、受け継がれてきました。環境や地形のストーリーも交えながら、ぜひ「海の文化」の奥深さを知ってください。

日本三景天橋立で知られる宮津湾。天橋立は、自然現象により現れた宮津湾の地形と海流がつくりだした奇跡の自然美だ。

令和4年、天橋立は、芸術上または鑑賞上価値が高い文化財である「名勝」指定から100年、さらに「特別名勝*」の指定から70年を迎えた。
*特別名勝に関する記事は下記リンクの記事を参照

次の100年へ 次世代につなぐ名勝・天橋立

次の100年へ 次世代につなぐ名勝・天橋立

2022.9.16

神がつくった奇跡の橋

約2万年前までは、宮津湾一帯は陸地だった。地球温暖化により海面が上昇し、宮津湾が現れた。約2200年前、地震により土石流が海に流れ込み、天橋立の砂州が海面上に現れた。雪舟が約500年前の天橋立を描いた時、人々はこの不思議な天の架け橋を見て何を思っていたのだろう。

8世紀頃に編纂されたといわれる日本最古の書物のひとつ、「丹後国風土記(たんごのくにふどき)」には、天橋立の「国生み」神話のほか、浦島伝説や羽衣伝説が記されている。この地域は、神が最初に日本の国をつくり、養蚕や稲作を伝えたとされ、「和の源流」ともいわれている。

丹後地域に伝わる伝説をいくつか紹介しよう。

元伊勢籠神社に伝わる天橋立伝説

『神代の昔、天に会った男神・伊射奈岐大神(いざなぎのおおかみ)が地上の真名井原(真名井神社)の磐座に祀られていた女神・伊射奈美大神(いざなみのおおかみ)のもとに通うため、天から大きな長い梯子を地上に立てて通われました。
すると、一夜にして梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられています。
これは人間の心が純朴で素直であった古代には、神と人、天と地上とは互いに往き来でき、天橋立は神と人、男と女とを結ぶ愛の懸け橋と信じられていたのです。』

天椅立(丹後国風土記 逸文)

『丹後の国の風土記いわく、与謝郡の郡家の東北の方に速石の里がある。この里の海に長く大きな突き出ている部分がある。長さは1229丈、広さは ある所は9丈以下、ある所は10丈以上、20丈以下である。先を天の椅立(あまのはしだて)と名付け、後を久志の浜と名付ける。

これは国生みの大神・伊射奈藝命(いざなぎのみこと)が、天に通う道として椅を作って立てたものである。そのため、天の椅立と云われている。しかし、大神が寝ている間に倒れて伏せたため、久志備(くしび・神異)であると不思議に思い、久志備の浜と名付けた。(以下略)』

九世戸縁起(九世戸・文殊堂)

九世戸縁起(九世戸・文殊堂)
文殊信仰の聖地、智恩寺

『その昔、神々が日本の島々を造られていた頃、
この地はあらうみの神(龍神)に占領され
人の住まうことができませんでした。

そこで、神々がご相談なされ、
中国の五台山より智恵第一の仏である
文殊菩薩をお招きすることとなりました。

文殊菩薩はこの地で千年間もの間説法をされ、
龍神をことごとく改心させ
人々を護る善神へと導かれたそうです。

その後、神々は文殊菩薩の持たれる
如意に乗って海へ降りられ、
その如意が浮かんだものを天の浮橋といい、
ここに龍神が一夜にして
土を置き天橋立となりました』

(後略)

引用:文殊堂智恩寺ホームページより

浦島伝説

伊根町筒川の浦嶋神社(宇良神社)には、日本最古の「日本書紀」の伝承が受け継がれており、全国に伝わる浦島太郎伝説の中でも最も起源が古い。

そこには、こう書かれている。

『雄略天皇の御代22年(478年)秋7⽉、丹波国与謝郡筒川に⽔江浦嶋⼦という⼈物がいた。
⾈に乗って釣りをしていると、遂に⼤⻲を得た。
⻲は美しい⼥性になり、浦嶋⼦はこれを妻とした。
海に漕ぎ出した⼆⼈は、蓬莱⼭に⾄った。
そこは仙⼈たちが暮らす世界だった。
詳細は別巻に在る。』

また、浦嶋神社のホームページには、こうも書かれている。

『伊勢神宮の外宮は豊受⼤神を祀る。豊受⼤神は、元々丹後(当時丹波国)に祀られていた。平安時代初期の『⽌由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によると、第21代雄略天皇の夢枕に天照⼤神が現れ「⾃分⼀⼈では⾷事が安らかにできないので、丹波国の豊受⼤神を呼び寄せよ」と⾔われたことにより、雄略天皇22年(478)7⽉に伊勢神宮外宮に遷座することになったと記される。雄略天皇22年7⽉は当地の浦嶋⼦伝承の中で「浦嶋⼦が蓬莱⼭へ⾏く年」である。このときに丹後において何事かが起こった可能性もあり、そのことが浦嶋⼦伝承の発祥に何らかの関連がある可能性もある。』


元伊勢籠神社のホームページによると、神代の時代から祀られてきた豊受大神は天照大神とともに四年間祀られた後、伊勢にお遷りになったという。これが「元伊勢」といわれる由緒だ。
現在の「籠神社」という名の由来は、冠島(舞鶴市)に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕と稲作を広めた彦火明命(ひこほあかりのみこと)が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とか、常世とも呼びます)に行かれたとの故事により、社名を籠宮と云うと伝えられている。まるで、彦火明命が浦島太郎であるかのようなストーリーである。

また、奥宮の眞名井神社には籠神社海部家三代目の天村雲命が天より持ち降りた御神水「天の眞名井の水」がある。現在でもパワースポットとして人気の眞名井神社だが、はるか昔から、人々はこの神々しい場所に惹かれ、感謝の意を示してきたのだ。

天橋立公園内にある観光スポットでもある「磯清水」には不思議な淡水の湧水が出ているが、砂洲の地下や宮津湾の海底全体にも湧水が出ていることが知られている。周りの山々から地下へ、海へと流れている聖なる水が、天橋立に生育する約6700本の松を育て、この有形美をつくったとすれば、自然に対する畏敬の念が生まれ、人々が神代からここを「聖地」と呼んできたことにも納得がいく。

海への祈り

海への祈り
出船祭

海の京都エリアでは、神が降りたったとされる海への感謝の意を示す行事が数多く残されている。その一つに、「出船祭」がある。天橋立文殊堂智恩寺に残る伝説「九世戸縁起」を再現したもので、毎年7月24日に行われている。天橋立の海上に舞台が作られ、その上で奉納の舞、海上絵巻(龍舞)が繰り広げられる。荒海の大神である龍が大暴れする様子は圧巻だ。最後には夜空が花火で彩られる。

また、年に一度、6月1日に丹後半島から福井県にかけて、若狭湾周辺の漁師たちは一斉に冠島に集まる。「雄島参り」という、島内にある「老人島(おいとじま)神社」の例大祭で、漁業の安全や大漁祈願をする行事だ。旗や幟を立てた船上で笛や太鼓の囃子をしながら雄島(冠島)へ向かう。

『漁師たちは「オシマさん」と親しみをこめて呼び、「お島さん参り」と呼ばれている。(中略)沿岸の漁村では、男が成人すると小さい船を櫓一本であやつり、冠島に参拝して無事戻ってはじめて一人前の男とあつかわれた。舞鶴市吉原の「節句参り」の風習はこの発展型であろう』
(宮津市史)

舞鶴市の北方約10キロの若狭湾上にある冠島へは、現在はモーターボートを使うとそう遠くはないが、昔の手漕ぎ船では舞鶴市内から数時間かけてやっと辿り着く距離で、海難からの避難島として漁師の命を守ってきた。

元伊勢籠神社の氏子地区である江尻では、漁師たちが雄島参り前日の5月31日、「大浜祭」として漁港に斎場を設け、冠島を遙拝し、海上安全と大漁祈願のお祈りをするそうだ。

吉原万灯籠

舞鶴市吉原地区では、8月16日に「吉原万灯籠(よしわらのまんどろ)」行事が行われる。昔クラゲが大量発生して漁ができなくなり、海の神様の怒りを静めるために始まったといわれている。
魚型の万灯籠に神火を点灯し川の中に立て、火の付いた万灯籠をぐるぐると回転させる迫力のある火祭りで、京都府指定無形民俗文化財となっている。

また、宮津市と舞鶴市小橋(おばせ)地区では、精霊船の行事もある。
初盆を迎えた故人の家族がお盆に霊を迎え、飾りをつけた精霊船と呼ばれる船に故人の霊を乗せ、極楽浄土へ送りかえすため海へ供養するものだ。中国の「彩船流し」の影響が強いとされ、長崎県の伝統がルーツだといわれる。「小橋の精霊船(しょうらいぶね)」も京都府無形民俗文化財に指定されている。

橋立やまいち(宮津市府中)

漁港として栄えてきた伊根町、宮津市、舞鶴市では、各地で多くの祭礼芸能や伝統行事が受け継がれ、かまぼこ、へしこ、バラ寿司、ちくわ、うご(エゴノリ)など、海との関わりが深い伝統の食文化も育まれてきた。この地域にとって、海は人々の生活の一部になっており、海がもたらす恵みに感謝の心を表すという、海と共に生きてきた人々ならではの伝統文化が脈々と息づいている。

京都府地域文化活性化事業では、本年度「和の源流:海の京都」として、海の文化にスポットを当てた映像制作、ツアー造成を実施している。地域文化活性化プロジェクトの特集ページで公開の際は、下記リンクでぜひチェックしてほしい。

地域文化活性化プロジェクト

舞鶴・吉原 城下の漁民は開拓者

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2020.12.17

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