金引の滝~1000年の時を超える霊峰~

まちと文化

金引の滝~1000年の時を超える霊峰~

 京都府で唯一「日本の滝100選」に選ばれている金引(かなびき)の滝。宮津小唄にも登場するように、天橋立と並んで宮津の観光名所になっているこの滝については歴史が長く、いつ、誰がどのように発見し、なぜ観光名所になったのかなど謎も多い。今回、約100年ぶりに祠堂を改装したことをきっかけに、地元出身の筆者が調査を行った。ぜひこの機会に滝の魅力を皆さんにお伝えしたい。

1)滝馬地区について

<宮津小唄>
~ 宮津見にくりゃ去ぬ日がなかろ(ヤット ソレソレ ソジャナイカ)
今日は橋立 明日は金引 うかうかと(宮津ヨイトコナ 天の橋立 マタキナハレ)~

 「名勝・金引の滝」がある地域のことを「滝馬(たきば)」地区という。名称は「氏神様名を戴いた」と言い伝えられているが、次のような歴史背景があるようだ。
 寛政2(1790)年、この地域に「智源寺十四世道舟和尚『滝場山龍井庵』を開き隠世」とあり、この時に初めて「滝場」の名称が登場した。寛政12(1800)年、完成した社殿の棟礼には「若宮神社(後の滝馬神社)」と記載されているが、元治元 (1864)年には「滝馬神社」と記載されている。明治18(1885)年2月、田中村・有田村の合併により滝馬村が登場した。当初は別々の村名を主張していようだが、この時期に「”滝”場山龍井庵」ができた事、ご神体は「”馬”頭観世音」であったことが、この名称に落ち着いたように思われる。

 今でこそ自然豊かな地域であるが、戦国時代には戦場の舞台ともなり、特にこの地域は如願寺口・関ヶ渕と共に加悦へ越す宮津谷の要衝であった。
 永正3(1506)年、如願寺谷から宮津谷一帯にかけての如願寺跡会戦では、宮村・有田・田中の村々がことに激戦で、勇将香西某の墓、あるいは文殊の沢蔵軒の墓など、当時の戦いの激しさがしのばれる。
 現在は「金引の滝と旧宮津街道を訪ねるみち」として歩道が整備されており、地蔵峠を越えて滝上公園の如願寺付近まで散歩することができる。

2)金引の滝について

 昔、この滝は有田村にあったことから「有田の滝」とも言われていた。金引の語源は、山の名称「金引山」から来ているが、金引山は通称「題目山」とも呼ばれている。この山には昔から霊気があり、霊峰金引山としてこの山に霊感を得た人が石に題目を彫ったことから、そう呼ばれるようになったようだ。
 滝は昔、如願寺の寺領に属していたことから、開祖皇慶上人(没年永承4年)によって1049年頃に開かれたものではないかとの説もあり、後一条天皇の頃とすればおよそ1千年に及ぶ。
 そして次に手を加えたのは旧藩時代の本壮氏である。家臣の心身修練の道場として、毎日自ら家臣を率いて尊前にて鍛錬され、また休息所を設け水車でそばを打たせて食したという。これが「滝そば」の元祖である。

金引の滝は、次の滝が見所である。
「臥龍の滝」:白龍伝説により最下段の滝を龍の寝た姿とたとえて臥龍の滝という。
「白龍の滝」:中段の滝で、白龍伝説で龍神が住むというところからこの名がある。
「男滝・女滝」:男滝は四筋に、女滝は三筋に流れることから「七条の滝」と呼ぶ。

 ではここで名称の由来となった「白龍伝説」とは何のことだろうか。また、なぜ滝壺は浅いのか、それには次のような伝説があるようだ。

~もとは如願寺にあった吉祥院がいつの時からか金引の滝へ移された。寺が衰弱し、最後の住職となった尼僧は下の白龍の滝へ身を投げたという。この滝は元は底なしと言われ常に青黒く渦を巻いていたが、戦後石を割り滝壺を埋め水が道に溢れないように工事をした。その時以来、滝壺は浅くなったのです。然し当時は道もなく青黒く渦を巻く滝壺に浮かんだ尼僧の姿を見て「あおりいか」になったと恐れたという。また一説には「竜になって」不動尊をお守りしたとも伝えられる母竜は洞窟に通ずる重岩に住み、子は川を降って分宮神社に住んだ。そして、ひじり川は親子通う道だとの説もある。これよりこの滝を「白龍の滝」と呼んでいる。~

 実際は昭和15年頃の林道工事によって、滝の上で割った岩石が多量に滝へ落下し、またいく度かの大雨・土砂崩れで滝壺が埋まってしまったのではないかと考えられる。ちなみに、この滝は人の声が聞こえてくるということで昔から有名である。ある時は5~6人の話し声のように聞こえ、又ある時は読経のような声にも聞こえる。神秘の謎は何か? 声の主は何か? 特に水量の多い時にはよく聞こえるらしく、ぜひ耳をすませて聴いてほしい。

3)金引山不動明王

3)金引山不動明王
明治44年1月1日 お正月の挨拶に送られたポストカード。 当時の祠堂の様子が写っている。 創建年代は不明であるが、以前は茅葺き屋根のお堂であったようだ

 約1千年の昔、如願寺塔頭威性院により、金引山不動明王尊が勧請されたと伝えられている。「木造坐像・台座共総高尺二寸・火焔光背二尺」と記されているように、小さな不動明王が祀られている。制作年代は不明だが、鎌倉期頃に制作されたと言われている。金引の語呂より「商売繁盛」の神として有名であり、また「身代わり不動尊」としても有名である。諸説には、古代に丹後国司であった藤原保昌が安置したとされ、その妻和泉式部も尊信篤く、以後歴代の国守や城主にも篤く崇敬されるようになった。

4)宮津名所 金引の滝へ

 明治4年、宮津で「海産物博覧会」が開かれるのを機に村の支援を受けて滝の整備として新道の開発が行われ、滝の下には大きな休息所を設けた。この時に京都府知事の来園があり、たいそうな事であったようである。この明治の開発こそは「宮津名所金引の滝」として、天橋立と並ぶ観光地を目指していった第一回の開発であった。
 明治30年頃から公園化を目指す動きがあったようで、「日出新聞」には、城東村長の楠田佐兵衛ら2、3人が発起人となり、滝村公園を設置することを協議中との記事がみられる。
 観光名所化を目指していた有志であったが、明治40年8月25日、宮津に大水害が発生し、あづまやや樹木も砂で全て埋まってしまった。崖・山は崩れ膨大な水と土砂は宮津高校近くまで泥海化したと言われている。これにより、周辺の開拓と道路の修繕を行う計画は一時中断されてしまった。
 しかし、大正6年、村長の楠田佐兵衛を筆頭に、有志一同によって修繕工事が再開された。金引の滝には休憩所を本堂下に改築、また岩下に売店を設け、そば・うどん等を販売し始めた。この時に祠堂を再建し、現在の形の基礎となったようだ。

この写真は、金引の滝を世に出して観光名所とする目的から村の代表者が集まって付近の道路を整備し、完成したので記念撮影をした様子(大正2、3年頃) (下段右から2番目が村長の楠田佐兵衛、上段右から2番目が筆者祖先)

 昭和2年、北丹後地震がありこの休憩所は売店を残して倒壊し、その後宮津町が再建し復旧させたが支那事変頃には、滝を訪ねる人もいなくなり荒廃。
 昭和38年、滝の荒廃を見た西村富蔵氏(ホテル北野屋、元観光協会長)等を発起人として「金引不動奉賛会」が発足。境内の浄化と参詣者のために44万450円の募金を行い、大黒山よりあづまや3棟、売店・便所を設けて観光地として復活した。
 昭和53年より道路の改修を始め、昭和55年全面コンクリート舗装となる。これにより金引の滝近くまで車で観光することが可能となった。
 そして平成2年、有志の方々の努力もあって、金引の滝は「日本の滝100選」に選定され、今に引き継がれるようになったのだ。

5)令和の改装

5)令和の改装
旧祠堂(上)と改装後の祠堂

 今回、大正6年に改装されて以来、約100年ぶりに祠堂の改装を行った。水場が近いことで祠堂にはカビが生え、屋根の鉄板も雨漏りをしている状態であった。
 昔はこの祠堂の前でごま法要を行っていたようで、今でもまれにごま焚きを依頼してくる人もいるようだが、建て替えとなると約2000万円かかるということで、地元の協力者により防腐剤等を塗り、装飾を行い、「火気厳禁」とされた。
 祠堂周辺には、この土地の所有者や、当時寄進した人たちの名前や金額が書いた札がかかっており、この不動尊がいかに近隣周辺から尊敬を集めていたのかを偲ばせる。

~最後に~

~最後に~

 令和になり、再び金引の滝に注目が集まったことは喜ばしきことであり、観光地化のために尽力してきた祖先達に感謝をしたい。最後に、貴重な歴史資料を引き継いでくれた地元住民の思いを皆様に伝えて終わりとしたい。

 “時世は永遠に流れていくものであります。私達の滝馬の現世が将来の、よき歴史となることを望んでやみません。“  滝馬自治会 滝馬史編集委員会 (平成2年3月発行「わがふる里滝馬」より )

この記事は、一般の方からの募集記事として寄稿いただいたものを掲載しています。

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