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大江山(資料編)

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○「今昔物語集」始丹後国迎講聖人往生語

今昔、丹後の国に聖人有けり。極楽に往生せむと願ふ人、世に多かりと云へども、此の聖人は強になむ願ひける、十二月の晦日に成て、今日の内に必ず来れと云ふ消息を書て、一人の童子に預けて、教て云く、暁に我が未だ後夜起せざらむ程に、汝ぢ、此の消息を持来て、此の房の戸を叩け、我れ、誰そ、此の戸叩くはと問はば、汝ぢ、極楽世界より阿弥陀仏の御使也、此の御文奉らむ、云ひ置て、我れは寝ぬ、暁に成て、童子、云ひ含たる事なれば、柴の戸を叩く、聖人、儲けたる言なれば、誰ぞ、此の戸を叩くはと問ふに、極楽の阿弥陀仏の御使也、此の御文奉らむと云へば、聖人、泣々く丸び出て、何事に御坐つるぞと問て、敬ひて文を取て見て、臥し丸び涙を流して泣けり、如く観じて、年毎の事として、年積にければ、使と為る童子も、習て吉く馴てぞ、此の事をしける、而る間、其の国の守として、大江清定と云ふ人、此の聖人を貴びて帰依する程に、聖人、守の国に有る間に、館に行て、守に値て云く、此の国に迎講と云ふ事をなむ始めむと思給ふるを、己が力一つにては叶難くなむ侍る、然れば、此の事、力を加へしめ給ひなむやと、守、糸安き事也、と云て、国の然るべき者共を催して、京より舞人・楽人なむど呼び下して、心に入れて行はしめければ、聖人、極て喜て、此の迎講の時に、我れ極楽の迎を得るぞと思はむに、命終らばやと守に云ひければ、守、必ずしもやと思て有けるに、既に迎講の日に成て、儀式共微妙にして事始まるに、聖人は香炉に火を焼て娑婆に居たり、 仏は漸く寄り来り給ふに、観音は紫金の台を捧げ、勢至は蓋を差し、楽天の菩薩の菩薩は一鶏婁を前として微妙の音楽を唱へて、仏に随て来る、其の間、聖人、涙を流して念じ入たりと見ゆる程に、観音、紫金台を差寄せ給たるに動かねば、貴しと思ひ入たるなめりと見る程に、聖人、気絶て失にけり、音楽の音に交(まぎ)れて、聖人絶入たりと云ふ事をも知らざりけり、仏、既に返り給ひなむと為るに、聖人、云ふ事もや有る、と時替まで待つに、物も云はず動かねば、怪びて弟子寄て引き動かすに、痓(すくみ)にたりければ、其の時にぞ、人知て、皆、聖人往生しにけり、と云て、見喤り泣き貴びける、 実に、日来、聊に煩ふ事も無くて、仏を見奉りて、迎はれ奉るぞ、と思ひ入て失なむは、疑ひ無き往生也とぞ、讃め貴ける、況や、日来、此の時に命終らむと願ひけるに違ふ事無し、実に奇異に貴き事なれば、此く語り伝へたるとや、

○「辛皮争論訴状」(延宝7年=1679)

(前略)

一、(中略)元普甲往還之道筋并普甲寺屋敷跡辛皮谷、水無谷、魚釣谷、今普甲往還道近所迄加佐郡之内ノ由、田辺殿百姓共絵図仕差上ケ申祖ニ付、其絵図此方御地頭江被遣祖故、御尋被成ニ付驚入奉存候御事、

一、右之所之宮津分紛無御座候証拠之儀、右之辛皮・水無谷・魚釣谷・仁王谷抔与申所、先代丹後守(京極高広)様鹿狩之節、与謝郡之儀は不申、七万八千石御領分中并御家中は不及申、町中迄皆卒人足ニ罷出候儀ニ御座候、(以下略)

(中略)

一、普甲寺屋敷跡ハ安智様(京極高広)御代y此方百姓令住居、田畑を開耕作仕、御年貢上納申、御蔵所之内も前代y之帳面之通ニ而御納所被成候、(以下略)

○貝原益軒「天橋記」(元禄2年=1689)

与佐の海の南也、大山といふ名所也、帝都より山の南の麓内宮まで廿四里、夫より嶺まで二里、此間に二瀬川あり、左の方に千丈ヶ嶽、鬼ヶ窟あり、是をも大江山といふに式部か詠に、大江山いく野とつゝけたるは老の坂の事也、嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あり、是普賢の道場にして、開山は棄世上人と云ふ、今辻堂のやうなり、普賢堂あり、荊棘生ひて路も断へ尋ぬる人もまれなり、凡山間に山所茶屋あり、京極安智(高広)旅客の為に置所也、麓の左に宮津より一里の碑有、是まで山路険阻也、

 

○「道造志願手当米積添帳(部分)」(文政年間、個人蔵)

 乍恐奉願上口上覚

千歳峠者、御当国第一之高山ニ而山険阻而石高牛馬之打越難相成程之難所ニ御座候故、近村y度々道造仕候得共、雨毎土流石高相成、殊御上様久々御通行不為在候ニ付、弥道悪敷相成候ニ付、志願之者共折々千歳峠道悪鋪、旅人之難渋を歎き、米五百俵積立、此米郷中江年一割之利足廻ニ相頼、此利米を以千歳峠并松原町より北村迄之松縄手者左右之土手高中低候而冬春者往来之旅人難渋仕候ニ付、土手同様之高き平地ニ仕候得者、往来之泥水左右之御田地江下り自然与御田地之御為ニも宜鋪与奉存候ニ付、道造仕度奉願上候、右御許容被成下上者、道造之儀御免之御声御懸被成下候様奉願上候、御時節柄ニ恐多願御座候得共、猶亦御上様御手元y御米弐百俵被下置候ハヽ、都合七百俵ニ相成、私共志願之趣も全成就仕、御領分倍々繁栄可仕与奉存候ニ付、不顧恐御願奉申上候、格別之以御思召御手元より御米弐百俵被下置候ハヽ、難有仕合奉存候、以上、

○「道造志願手当米積添帳(部分)」(文政年間、個人蔵) *上記とは別の部分

 乍恐奉頼上口上覚

松縄手・千歳峠之道造之儀者、先年奉願上候通成就仕、往来之旅人悦申候儀、追々承難有奉存候、然ル所、岩藤y中之茶屋迄山道壱里之場所ニ休足所無之候ニ付、旅人野立仕候得とも暑寒之節者暑雪之難儀ニ而野立も難相成、荷持抔者別而難渋仕候ニ付、御立場近辺ニ弐間四方之腰掛茶屋相建、家守を差置、旅人之助ケも仕度奉存、岩藤・中之茶屋ニ而も相尋候処、腰掛茶屋相建候而も前後之茶屋差障ニ者相成不申被申候ニ付、乍恐腰掛茶屋御免被成下候ハヽ、往来旅人一統難有奉存候ニ付、御憐愍之以御慈悲奉願上候通、腰掛茶屋御面被成下候ハヽ、難有仕合奉存候、以上、

○「一色軍記」(成立年代未詳、竹野神社蔵)

一 六代 修理太夫義直

(中略)依之義政武田信賢が□に一色家より押領せし所の若狭国をを安堵し更に丹後の守護に補す。則ち信賢丹後に攻め入り八田の館を抜き勢に乗じて奥丹後に攻入らんとす、但馬国より山名の援兵来り義直の軍と合して加佐郡普甲寺に戦う。文明三辛卯六月信賢卒し義直八田を固むと雖も京師の戦乱未だ治まらず在国の暇少なきに乗じ、同五癸巳九月信賢遺臣逸見駿河守丹後を侵す、義直の弟義遠吉原山より来りて八田に防ぎ戦う。同九丁酉九月義直所領三河国代官東条国氏叛するに依り、甥義有を遺りて国を収む。翌十戊戍十一月応仁乱漸く平ぎ、其翌十一己亥二月義直丹後国を復し尚伊勢の守護も併せ復し同十五癸卯五月従四位に叙せらる。長享元丁未年九月将軍義尚六角近江守征討のとき、義直弟義遠と共に丹後の兵を率いて江州御動座に従軍して、功あり。明応七戊午五月武田の一族復た丹後を犯し、義直普甲寺に陣殁す。これには異説あり法號不知後考に俟つ。

○「丹州三家物語」千賀日置喧嘩の事(江戸時代)

細川父子(丹波福知山の住人、細川兵部大夫藤孝 子息與市郎忠興)丹州入部のよし聞えければ、國中の侍ども、隣城縁家もより〃〃に通談しけるは、抑今つら〃〃世の盛衰を考ふるに元亀天正の比迄は、天下いまだ半治半乱とは申せども織田信長天下をしろし召れん事掌をさすが如し、殆ちかきに可有。細川の此の國へ来る事、皆信長の所為なるべし、然ば憖(なまじひ)に細川に楯突て後難をまねかむより、はやく和睦を以て細川に対面すべきか、又は國中の各催し合、難所を前に當防戰すべきか、あるひは所々の險城に大将楯籠細川が人数を所々へ引分けて可討かと評議まち〃〃なりといへども、親き者は遠路を隔て近所の者は年末讎(あだ)をむすび、あるひは頑(かたく)しき者共にて此事終に熟談せず、心々に成にける。爰に與佐郡大島の城主千賀兵大夫、日置むこ山の城主日置彈正といふ者の两人かたらひ、細川入部の迎として普甲峠の麓迄、たがひに連騎いたしけるが、彈正はかくれなき美男にて衣裳馬鞍に至るまで麗(うらら)花(か)なる出たち也、千賀は元より貧にしてにくさけ男の違風者、衣服、馬具迄見ぐるしければ、彈正千賀に対して戯言しけるは、はじめて細川殿に可會身がかゝる見ぐるしきは裝束やある、□たる戻の肩衣をば着かへと給といひければ、千賀大に腹を立、口論募て既に喧嘩に仕、兩人即時に討果ぬ、家来も互に切合て忽死人七八人に及ける。

○「丹後資料叢書」(「宮津旧記」)

普甲山

 延喜式神名帳に與謝郡布甲神社と云を載たり今此社定かならず又元亭釋書に普甲寺と云ふ伽藍有て慈雲と云高僧の住けるよし此故に普甲山と呼ぶ、慶長五年京極修理大夫高知入國の砌不幸音をいみて千歳峠と改むべしと令ありしとかや天橋記に此山を與佐の大山といふ名所と記せり。帝都より南麓内宮村迄廿四里あり山陰道往來の大道なり夫より峯まで二里此間に二瀬川あり左の方に千丈ヶ嶽鬼ヶ窟あり又峯に宮津より二里の建石あり其東の山中に普甲寺の伽藍の舊跡あり是普賢の道場にして開山は棄世上人といふ今も小さき普賢堂あり又砂石集に丹後國普甲寺といふ昔尊上人ありと云々棄世上人は愚中艸飯集に見えたり。俚俗の云傳へしに普甲山は大伽藍にて莊田貳萬石あり今に關東には普甲寺舊跡の地ありと也與佐の大山といふ事は歌所の部に記す。

○「丹後宮津志」

千歳嶺碑

  千歳嶺稗は上宮津村字小田普甲峠の頂上にあり、普甲嶺一に千歳嶺といふ、京都府下維新前民政資料碑文集に曰

 千歳嶺碑

  加佐郡河守上村より與謝郡宮津に通ふ普甲峠の西北に在り此道は大山を亙り険道にして行旅を苦しむを以て宮津城主本荘氏より開修し大に通行に便せしむ人民皆欣喜せしを以て賀茂季鷹に嘱し此碑文を作り石に刻し其阪に建てしめむ事は文に詳かなり。

 碑文に曰

 千歳嶺

 千年山は近江丹波二国に在然るに此山は古ふこうたむけと云しを不幸不孝なと音かよへは祝て千とせたむけと云しとかや今思ふに延喜式神名帳に與謝郡布甲神社あれは其神社此山に在し成へしされは其餘波と覚しくて中比まて普甲寺てふ寺有しが夫は絶にきとそされは彌人蹟まれなれはおのつから草木所を得て茂りあへりとそ抑其山路さゝ泥たにさかしさに行かほ人苦しめるをこたひあわれみ給ひて此わたり知しめす守のとのゝ仰書有て岩をうかちさかしきを平らけせはきに広くなさしめ給ひたれは千歳山の千とせの末まても往がふ人あほきたふとまらむやあなめてたくめてたくとたゝへ侍りしなきこしめし氏仰事侍るをいなみかたくて八十の翁目をしほりつゝあからさまに筆を執い

 へるやあな恐穴かしこ

天保二年九月廿三日

 正四位下加茂 県主 季鷹

  道ひろき君がめくみに諸人の

    ゆきかひやすき此千とせ山

                 季鷹

○「丹哥府志」(江戸時代、地誌)

間道 平石の次、宮津より一里半余

間道といふ処はまづ宮津海道の短亭なり、逆遊及茶店などあり、是より千歳嶺へ登る


千歳嶺 宮津より二里

千歳嶺は元普甲嶺といふ、京極侯の頃普甲は不孝と称へ同じければ、之を諱みて千歳嶺と改む、近年好事の者加茂季鷹に和歌を乞ふて千歳嶺の碑を建つ、

 道広き君かめくみにもろ人の

  行かひやすきこの千歳山

 

寺屋敷 千歳嶺の中頃より左へ入

普甲寺

元亀二年将軍信長故あつて延暦寺を焚焼くして将に余類なからしめんとす、於是住僧遁て西岩倉及善峯寺に匿る、将軍信長之を追て又西岩倉善峯寺を焼く、是以住僧都下に匿ること能はず、遂に丹後普甲寺に遁る、将軍信長其丹後に遁ると聞てよつて又人を丹後に遣し普甲寺を焼く、是時普甲寺廃寺となる、其伽藍の跡なりとて礎石尚残る、今ある所は僅に普賢堂のみ、西岩倉及善峯寺は元禄の頃大に伽藍を全修す、故あつて吾祖先之を知る、よつて話説家に残る、事は祖先の常州笠間に在し頃なり、今惜むらくは既に丹後に移て後其事あらば当に普甲寺も西岩倉及善峯寺の如くなるべし、

布甲神社 延喜式

布甲神社は今ある処を詳にせず、或云布甲神社は元亀二年普甲寺と同じく廃すといふ、又云今の内宮は村の名にあらず、内宮あるを以て遂に内宮村と称す、元普甲村と称す、蓋一郷の惣名なり、よつて布甲神社は今の内宮なりといふ、二説未だ孰が是なるを知らず、

赤岩 大山の東

大山の東に又一峰あり赤岩といふ、蓋其次に赤色の岩あり、よつて名つく、岩の上に華表の形を刻す、如何なる謂をしらず、土人霊験ありとて種々の祈願をこめる、雨乞などには別して験ありといふ、

中の茶屋 千歳嶺の麓

中の茶屋は千歳嶺の南にあり、間道の茶屋と略相似たり、宮津より凡二里半余、

二瀬川 中の茶屋の次、是より内宮へ一里余、既に加佐郡に属す、されども前段の次なれば爰に合せ

二瀬川といふは二川合流の処なり、よつて名とす、一は千丈の瀧より流る、一は千歳嶺より流る、在昔源頼光夷賊征伐の日於是人の死骸川に流るゝを見る、よつて夷賊の住処既に近を知る、是より西に向ひて大江山に登る、

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